学校教育について、いじめの問題や、必修科目の履修ができていなかったことなど、様々な問題が噴出して、私も一度ゆっくり考え直してみたいと思い、しばらくブログもお休みしていました。
色々な場所で、色々な人がコメントしていましたが、ほとんどの人が、
学校の勉強で大事なのは、主要五科目以外の勉強だと言っていたことに、少しがっかりしました。
もちろん、実生活で、目に見えて難しい数学や物理、化学などが必要になったりはしませんが、主要五科目というだけあって、やはり勉強、学問の基本は、算数・国語・理科・社会・英語なのだと思います。
受験勉強のために、その主要科目すら最小限に削ってしまうことは、もってのほかだと思います。
勉強の基礎が出来ていないのに、何も積み重ねられません。
勉強することは、人間形成の基礎でもあると思います。
例えば、善悪の判断などの良識の範囲がわからずに、いじめがエスカレートして、人の命を軽々しく奪ったり、傷つけたりしますが、そういうことは、真面目に授業を受けていたら、小学校の国語の時間で習ういくつものお話から、自然に学ぶことができます。
社会の授業でも、実生活で必要な、いくつものルールを学ぶことが出来ますし、理科の授業では、生物界や宇宙の法則を学びます。
科学というものは、いくつもの実証がなされて、法則が成り立っているものですし、数学は、その究極で、必ず答えがあります。
そういうものを学ばず、ただ、体育や、音楽や、図工など、自分達が楽しいものだけをしていたらいいという考えは、実際はとてもアンバラン
スな人間を産み出してしまうと思います。
野球だけが上手でも、サッカーだけが上手でも、音楽だけが秀でていても、それしか出来ない人になってしまってはいけないと思います。
一芸入試が盛んになって、何か一芸にさえ秀でていたらいいという風潮は、偏差値ばかりを求めた挙句に、偏った学力を、能力と勘違いした大学生を量産してしまった時と同じくらい、危険な気がします。
実るほど頭を垂れる稲穂かな…という俳句について書いた時にも述べましたが、本当に能力のある、優れた人ほど、何事にも謙虚です。
それは、きちんとした人格形成をしてきたという、確かな自信に裏打ちされているからではないのでしょうか。
なんのために、主要教科があるのか…それは、入試科目だからではなく、勉強の、学問の、いや、人間としての一番の基礎を学ぶ科目だからだということを、教育に携わる人達が、もう一度生徒に教える必要があるのではないでしょうか。
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